本当の幸せ:私にとっての聖書と心理学

愛してくれる父がいて、母がいて、おもちゃがあってお菓子がある。そうすれば、子どもは幸せに育っていくだろう。でも、まだ何かが足らないかもしれない。

何不自由なく幸せに育った私が始めて教会へ行ったのは、中学1年のころだった。教会では、牧師が良い話しをしてくれる。でも、少々ませていた私は、良い話だが、自分には関係がないと思っていた。聖書に出てくる「奇跡」も、お話しに過ぎないと感じていた。

その年の夏、私はイエスに出会った。といっても、別に奇跡が起きたわけではない。夏休みの「バイブルキャンプ」で、イエスの十字架が私自身のためだったと実感したのだ。聖書の中の話しにはまだまだ理解できないことが沢山あったが、「よい子」の私の中にも確かに「罪」があることを、子どもなりに理解した。

考えてみれば、100パーセント正しい人など存在するわけがない(「義人はいない。一人もいない」ローマ人へ手紙3章10節)。そして、私が受けるべき罰の身代わりとして、キリストが十字架にかかってくれたことを、ただそれだけを理解した。イエス・キリストを信じ、クリスチャンになるには、それで十分だった。

私は今、クリスチャンとして、そして心理学の研究者として生きている。心理学者として、様々な人に出会う。不幸な人、苦しんでいる人、周囲の人を苦しめている人。様々な問題を抱えている人々だが、根本的な問題は、愛の問題だとつくづく思う。自分は愛されていない無価値な人間だと感じることが、多くの問題の根源だ。

自分がどんなだめな人間でも、どんなに悪いことをしてきた人間でも、それでも神は自分の一人子イエスキリストの命にかえても愛してくれたと、心から信じ理解できれば、どれほど多くの人が救われるだろう(ヨハネによる福音書3章16節)。

一方、世の中の「勝ち組」の人たちは、時に傲慢になる。人間自体がそうかもしれない。聖書によれば、人間は決して宇宙の中心ではない。好き勝手に環境を破壊してよいわけもない。聖書は語る。人間は地のちりにすぎないと。同時に、それでも人間は高価で尊いと語る。

人は努力して良いことをする。けれども、だからといって価値があるわけではない。そう思えば、人は傲慢になり、他人を見下すだろう。人は努力してよいことをするが、それが愛される根本の理由ではない。そうだとすれば、愛されるために必死の努力し続けなければならない。

神は私たちを無条件で愛している。私の努力や才能の結果ではなく、ただ神の恵みによって私を救われている。そして、私は許され解放され、自由に楽しく、ビジョンを持って前進する。その結果として良いことができるなら、こんなに嬉しいことはない。

私は今感じている。
神がいて、私たちを守っていてくれていると。私にもあなたにも「タラント」(才能)を与えてくれている。私にもあなたにも神の愛の計画があり、使命が与えられていると(マタイによる福音書25章)。

大きなタラントを与えられていると感じても傲慢にならず、小さなタラントしかないと感じて卑屈にならず、自分のタラントを活かして生きていきたい。その毎日の生活の中で、私は日々癒され、命を与えられ、愛を受け、愛を注ぐ。それが私の、それが私たちの、本来の幸福な生き方だからだ。

碓井
 
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